なんだか今日は、生きるのがうまくできない気がしました。
ちゃんと起きて、働いて、人と話して、家事なんかする気力もなく家に帰って横になる。
表面だけ見ればおそらく「普通」なんだけど、心のどこかではずっと無理している感覚があるんですよね。
「社会人なんてそんなもん」って言ってしまえばそれまでですけど、それでもしんどいものはしんどい
他の人はうまくやっているように見える。
SNSには前向きな言葉が並んでいて、自分だけが止まっているような気さえしてくる。
「ちゃんと生きてるふりって、すごく疲れるな」って思いました。
うまく生きられない日=ダメな日じゃない

ずっと、うまくできない自分を責めていた。
できなかったことばかりを数えては、自己嫌悪のループにはまっていました。
でもあるとき気づいたんです。
「僕は毎日“減点方式”で自分を見てるんだな」
- 起きられなかった → ダメ
- やる気が出なかった → ダメ
- 疲れて休んだ → 甘え
…こんなふうに、どんどん自分を否定していました。
でも、ちょっと考え方を変えてみると
- 起きられた → よくやった
- 出かけられた → えらい
- 疲れて休めた → 自分を大事にした
- 今日も生きてる → それだけですごい
「できなかったこと」を数えるんじゃなくて『できたこと』に目を向ける。
加点方式で生きるほうが、心にやさしいと思ったんです。
うまくできない日=ダメな日じゃない。
今日もちゃんと生きようとした、その事実に、〇をつけてあげたい。
自分のペースを取り戻すということ

僕たちは、いつの間にか「誰かと同じスピード」で生きようとしてしまいます。
みんなと同じように頑張れなきゃ、同じように疲れを見せてはいけない気がしませんか?僕はそう感じていました。
でも、そもそも人それぞれエネルギーの量も、感じ方も違うはずなんです。
1時間かかって起きた日だって、その人にとっては立派な一歩。
誰かの「普通」が、自分の「無理」になることだってあります。
だから、自分のペースを大事にすることが大切だと思うんです。
朝が苦手ならゆっくり起きればいいし、人と関わるのがしんどい日は、距離をとってもいい。
「立ち止まること」は、決して後退ではありません。
呼吸を整える時間があってこそ、また一歩が踏み出せる。
焦らなくていい。
今日の自分を、少しだけ信じてあげればいいんです。

周りに合わせるのではなく、自分の生きやすい環境を作るのが、1番楽に生きれます。
生き方として「できない日を許す」

「何もできなかった日」に感じる、漠然とした罪悪感。
でも本当は、そんな日にもちゃんと意味があるはずです。
たとえば、疲れて寝てばかりだった日。
体も心も「これ以上がんばれないよ」と教えてくれていたのかもしれない。
泣いてしまった日も、それだけの気持ちを抱えていた証拠。
できなかった日を否定するんじゃなくて、「それでも今日を終えた」ってことに〇をつけてみるんです。
ちゃんと「存在してた日」として、自分の一部にしてあげる。
それは、自分に優しくなるための、小さな一歩です。
おわりに:うまく生きられない日のままで

生きるのが苦しいと思う日。
うまくいかないと落ち込む日。
そういう日があるってことは、ちゃんと生きようとしている証でもあると僕は思います。
痛みに気づける心があるからこそ、揺らいでしまう。
でも、それでも今日を生きようとした自分に、丸をつけていい。
何かを成し遂げた日だけが、生きてる日じゃない。
ただ呼吸して、存在していた日も、同じように意味がある。
うまく生きられない日のままで、大丈夫。
そのままのあなたで、十分です。